忘却オルゴール
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白よりも清潔なアイボリー
「あ」
と素っ頓狂な声をあげて突然目を見開いたミズタの視線の先の、アイボリー色の扉をくり抜いた僅かばかりの隙間から、年配の看護師がリノリウム床の殺菌力を見せつけるかのように妙な粘着音と共に通り過ぎる。私はベッドに横たわるミズタと平行に並び、病院の堅い椅子に腰掛けて途中で読むのを諦めた文庫本のパラパラと鳴る音を、いかにすれば昔面白く読んだ漫画のそれになるかというような下らないことで間を持たせていた。
「起きたか」
「今イノウエが居なかった?そこに」
「イノウエ?」
「高校の」
「四年も前にバイクで事故って死んだよ」
「ああ、そうだった」
ミズタが笑う。沈黙。それから何秒かの間の後、カチカチカチと聞こえてきた安っぽい作業音はアナログ時計の秒針を早回しにしたわけではない。ベッドの脇に据えられた小さな机でもう間もなく面会時間の終わりである八時を示そうとしているのは、ミズタの母親が家から持ってきたのであろうデジタルの目覚まし時計で、だからそんな音がするはずはない。
「俺、ちょっと行ってくる」
ミズタはそう言ってまたカチカチカチと音を立て、どこから取り出したのか分からない黄色いカッターナイフの刃を固定する。首筋に手をやり、人差し指と中指で頸動脈の感触を確認する。私は横目でそれをちらりとやりながら、この後起こり得る出来事を止めるべきなのかどうか思案していた。やたらとアイボリーばかりが目についた。床、壁、天井、カーテン、ベッドの金具、入院患者が着せられる薄い服、床、壁、天井。白と言えるものはシーツと蛍光灯くらいのもので、あとはここの全てがアイボリーで色取られているのだと気付いてしまうとぼんやり寂しくも感じた。無性に普段は飲まない酒が飲みたくなった。
「イノウエ、何か言ってた?」
「いや、ただ話したそうにしててさ」
「そう」
「だからちょっと行ってくるわ。すぐ戻る」
「ミズタ」
「何?」
「あいつの居る所じゃ桜が見れない」
「桜かぁ」
そして何処かの桜の咲く光景を思っているのか、目を閉じて静かな息をしていた。アイボリーの間が暫く続いた。点滴と連れだって歩く患者が一人、カラカラと部屋の前を過ぎていった。
「やっぱ一番の花だよ、桜って」
「うん」
「イノウエにも伝えとくよ」
私は中途半端に引き留めようとした愚行を心の内側で呪い、ただ「うん」とだけ答えた。「じゃ」と左手を挙げてミズタが首に当てたカッターナイフを勢いよく振り抜くと、シューッという音と共に傷口から赤い花びらが噴水のように立ち昇り、私と蛍光灯との間に一瞬の陰を作ると、はらはらと力無く床に舞い落ちた。薔薇であった。桜ではなかった。膝の上に落ちた花びらを一つ摘み、アイボリーに真紅はちょっと似合わないなと首を振り、腰を上げた。何時間も思いやりのない堅い椅子に座っていたせいで、尻の上の骨が軋むように痛んだ。
帰りに最近オープンした小さなバーへ寄った。若いバーテンダーに「今の俺に合う色のカクテルを」とからかい半分注文した。真っ青なブルーハワイに、ひとしきり笑った。
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by asi384 | 2005-02-01 07:34