忘却オルゴール
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放漫と無知
マンションの通路を、赤いランドセルを背負った見覚えのない少女がスカートの裾を翻して走っていった。

鍵を開けて暗がりの中へ逃げ込むように中に入ると台所から煮付けのこってりとした香りが出迎えてくれるのだが、そこに女の姿は無い。確か去年のクリスマスの一週間前か二週間前に此処を、と考えて、それからリビングの電気のスイッチをぱちりと入れて、はたと立ち止まり、果たして出て行ったのは本当に去年だったろうかと問い掛けるも、女の顔はとうの昔に薄れきってしまっていて答えを引き出すには足りない。足りないのだが、「男って弱いのね」と、確か呆れ顔で呟いた女の台詞と、それが出て行く前に作り置いていた良い具合に味醂の効いた金目鯛の煮付けを一人箸で突いてしみじみ「惜しかったなあ」とぼやいた時の、あの金目鯛の抉られた眼だけが辛うじて耳の後ろ辺りにまだ零れ落ちぬまま残っていて、それでも矢張り充分とはいえないのだが、あれは冬だったのだと確信を得て、それで満足することにした。
鍋の蓋を上げてみると、立ち昇る湯気の陰からもう大分量の減った煮汁の上に紅い金目鯛が二匹、腹を突き合わせてことこと揺れているのが現れ、いや上等の素材を上等に捌くとこういった上等な姿になるものかと半ば関心するほどの出来映えであるのだが、さてどこで取り出せばよいのか、そのタイミングが分からず、米もまだ米のままで洗ってもいない具合であったので、仕方なく火を止めて買い出しに出掛けることにした。ドアを開けると一月の風が私という存在をまるで無視するかのように脇を抜け家の中へとするり滑り込んできて、その瞬間、ごく自然に煮付けの香りの消えてしまうのを恐れ、またドアを閉めてしまった。後に残された室内の沈黙に、あのことこととささやかな金目鯛の煮える音はもう聞こえない。
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by asi384 | 2005-01-12 23:29